導入
ダージュ国の北門を抜け、緩衝地帯へと続く荒野。
外界の「不浄」から守り続けてきた巨大な防壁が、
今はただの灰色の石塊として聳え立っていた。
ハル・ブリーゼマイスターは、愛馬の歩みを止めた。
風の音が違う。壁の中の温い風とは違い、ここは壁の外。
大地も木々も小鳥のさえずりさえも
いつも聞いているものとは違っていた。
ハルと数人の付き人の小さな旅に
ハルの胸は高鳴るばかりだった。
ダージュの防壁からしばらく進んだところ、
大きな川を分かつ巨大なつり橋に差し掛かった。
「お待ちなさい! ハル・ブリーゼマイスター!」
ハルが振り返るのと同時、猛烈な砂煙を上げて一騎の影が肉薄していた。
極めて露出が少ない身軽な下半身といろいろと足りない装甲具。
ダージュ国きっての名門、マイシュベルガー家の当主、レイラである。
レイラは馬から飛び降りるようにして降り立つと、
肩で息をしながらハルに詰め寄った。
その瞳は怒りと、それ以外の複雑な感情で潤んでいる。
「私に黙って・・・挨拶もなく発つとはどういう了見ですの!
私との決着もつけずに、一人で英雄気取りだなんて許しませんわよ!」
ハルは馬上で短くため息をつき、静かに地面へと降り立った。
「レイラ何を言っているのですか。黙って、ではありません。
私は正式な手続きを経て、ミシュリーンヌ・ロワリエ様より
防壁外への通行許可証を頂きました。
貴女に報告する決まりは存在しません」
「屁理屈を! 幼馴染の私に一言あってもいいでしょう!
水臭いにも程がありますわ!」
「言えば貴女はこうしてついて来る。違いますか?」
ハルは冷静に、しかし鋭く切り返す。
「それにレイラ、貴女はマイシュベルガー家の当主です。
妹のシイラさんがいるとはいえ、家を空けて私情で外に出るなど、
貴族としての責務放棄ではありませんか?」
「ぐっ!」
レイラは言葉に詰まった。
ハルの指摘はいつも正論で、痛いところを突いてくる。
「そ、その点は抜かりありませんわ!
私だって、ロワリエ様から許可を頂いたのですから!」
レイラは懐から羊皮紙を取り出し、ハルの目の前に突きつけた。
そこには確かに、ロワリエ家の印章が押されている。
「ロワリエ様は仰いました。
可愛い子には旅をさせよ、獅子は我が子を千尋の谷に落とす。
ハル、貴女だけが特別だと思ったら大間違いですわ。
私もまた、ジークフリーダ様の下へ参ります」
ハルは少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの真面目な表情に戻った。
「・・・許可があるなら、止める権利は私にはありません。
ですがレイラ、ここから先はお遊びの剣技は通用しない。
農国シルクスでは今もヴァイスパの魔物が暴れていると聞きます。
貴女のようなお嬢様に、その泥と血に塗れる覚悟があるのですか?」
「貴女に言われたくありませんわ!
泥遊びなら子供の頃、貴女より私の方が得意でした!」
「私は覚悟の話をしているのです」
ハルの冷徹な声音に、レイラは唇を噛み締めた。
いつもそうだ。ハルは一歩先を見ているようで、レイラを子供扱いする。
それがたまらなく悔しく、そして愛おしくもある。
だからこそ、負けられない。
「・・・口で言っても無駄なようですわね。ハル」
チャリ、と金属音が荒野に響く。
レイラが腰の剣を抜き放った。
夕陽を反射し、切っ先がハルの喉元に向けられる。
「ここから先、ジークフリーダ様の庵までの道のりは、
パートナーではなくライバルとして競い合っていただきます。
ですがその前に・・・はっきりさせておきたいのです。
壁の外で最初に膝をつくのが、どちらなのかを!」
ハルは、目の前の親友の姿を改めて見据えた。
綺麗に整えられた髪、仕立ての良い特注の甲冑。
だがその奥にある闘志は、壁の中で燻っていた時よりも
遥かに熱く燃え上がっている。
ハルは諦めたように、しかし微かに口元を緩ませて、自身の剣を引き抜いた。
「いいでしょう、レイラ。そこまで言うのなら、ここで証明しなさい。
貴女のその剣が、飾り物ではないということを」
「望むところですわ! マイシュベルガーの剣技、その身に刻んで差し上げます!」
二人の令嬢の殺気がぶつかり合い、周囲の空気がピリついた緊張感に包まれる。
「行きますよハル!」
「思い出しますねレイラ!」
決着
「はぁぁっ!」
「たぁっ!」
二つの影が交錯し、
甲高い金属音が風を切り裂いた。
ダージュの貴族が嗜む剣術は、
本来、趣味でしかない。
だが、この防壁の外において、
二人の剣は何処までも真剣で加減はなかった。
ハルがレイラの斬撃を受け流そうと手首を返すが、
その衝撃が腕を痺れさせる。
「くっ・・・重いっ・・・!」
「当たり前ですわ!私もただの趣味としてだけ剣を振るってきたわけじゃありませんわ!
あなたを常に意識してきました。軽いわけがありません!」
レイラは追撃の手を緩めない。踏み込みと同時にレイラは砂を蹴り上げた。
同時に舞い上がる砂塵が、ハルの視界を奪う。
(砂・・・!?)
ハルが一瞬、顔を背けた隙だった。
壁の中の清潔な道場ではありえない、自然の猛威。
ハルの足が、荒野の浮き石を踏み、わずかに体勢を崩す。
「隙ありですわぁぁっ!」
レイラはその一瞬を見逃さなかった。
レイラは泥汚れも厭わず、
地面を擦るような低い姿勢からハルの懐へと飛び込んだ。
切っ先が下から跳ね上げられる。
ガキンッ
ハルの剣が弾き飛ばされ、クルクルと空を舞って、
乾いた地面に突き刺さった。
ドサッ。
ハルはお尻から地面に座り込んだ。
ゆっくりとレイラの剣がハルの顔に鋭く向けられた。
ハルの瞳が揺れ、そして静かに閉じられる。
「・・・私の、負けですね」
「はぁ、はぁ・・・やった!・・・勝った・・・勝ちましたわ・・・!」
レイラは荒い息を吐きながら、勝利を噛みしめるように叫んだ。
だが、その剣を下ろすと同時に、彼女も力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
荒野には風の音が鳴り響いている。
「・・・悔しいけど負けましたわ。
まさか、砂を蹴り上げて視界を防ぐなんて。
壁の中では足場の悪いところで剣なんて振らなかった。」
ハルがポツリと漏らすと、レイラはふふん、と鼻を鳴らした。
「戦いですからね。卑怯とは言わせませんわ。
・・・ただ、必死でしたの。
ここで貴女に負けて置いて行かれるくらいなら、
砂まみれになることなんてどうでもよかったですわ」
その言葉に、ハルは目を開けて横を見た。
綺麗にセットされていたレイラの髪は乱れ、頬には土埃がついている。
だが、その横顔は、幼いころから見知った貴族の令嬢の顔ではなく
一人の騎士に見えた。
「……私は、思い上がっていたのかもしれません」
ハルは自嘲気味に呟いた。
「覚悟、覚悟と言いながら、私はまだ『壁の中の剣術』をしていた。
足場の悪さ一つで体勢を崩すようでは、騎士などなれませんわね」
「私だって同じですわ。相手が貴方だったから
普段の剣術稽古じゃない行動ができたのですわ」
レイラは立ち上がると、座り込んでいるハルに向かって手を差し出した。
趣味で剣を交えた時とは違う、戦いを終えた戦友としての手。
「立ちましょう、ハル。私たちの戦いはここからですわ」
「……ええ。そうですね」
ハルはその手を強く握り返した。
引っ張り上げられ、二人は至近距離で向かい合う。
お互いの体温を感じあった。
「レイラ。貴女が隣にいてくれるなら、これほど心強いことはないですわ」
ハルが珍しく素直な言葉を口にすると、レイラは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「か、勘違いしないでください!
私は貴女がジークフリーダ様に粗相をしないか、そばで監視しに行くだけですのよ!」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
ハルは地面に刺さった剣を抜き、鞘に収めた。
レイラもまた、剣を収めて居住まいを正す。
「行きましょう、レイラ。私たちは未熟。でも二人でジークフリーダ様のもとへ行き、
もっともっと強くなりましょう!」
「ええ!これからは共闘ですわね!」